通信83号に掲載したNAZENヒロシマからのお便りを転載します。
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ヒロシマの援護法要求の歴史と今
~援護法獲得運動から見る福島のこれから~

渡子 健(NAZENヒロシマ事務局)

18598 2020NAZENヒロシマ総会

1 被爆者を焦土に野晒しした12年間
 被爆直後の広島は、たったの3カ月間「臨時戦災救助法」が適用された他は、GHQ統治下のプレスコードにより被爆の被害は徹底的に隠蔽されました。30万人の被爆者は焦土に放置されたばかりか、平和記念都市建設法(1949)による公園整備で焼け出された多くの被爆者は、再び住む家を奪われることになりました。
 52年に賠償請求権の破棄と引き換えに占領が解除されると、軍人・軍属だけを対象とした補償が復活しましたが、原爆症と貧困に苦しむ被爆者・遺族には一般戦災被害者と同じく何一つ救済策は取られませんでした。
 53年にようやく原爆症調査に国から100万円の予算が付いたものの、その裏では米ペンタゴン直属の軍事研究機関であるABCC(調査はしても治療はせず、年間千数百の被爆者を解剖)には、年1000万円規模の国家予算が組まれ、被爆資料も積極的に米軍に提供され続けていたのです。

2 核廃運動と『平和利用』
 54年3月にビキニ事件が起こると、核兵器廃絶の機運が高まり、56年に「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が結成、「国の責任において遂行した戦争による犠牲である原爆被害を受けたもの」に対し、「治療と生活」「健康管理」「慰霊金と遺族年金」「治療の研究施設」を要求しました。
 その一方で、第五福竜丸が死の灰を浴びたまさにその翌日、2億6千万円の原子力予算が提出され、56年には広島で「原子力平和利用博覧会」を催すなど「核の平和利用」の美名のもと国は原発建設を強力に推し進め、多くの反核・被爆者団体がこの流れに巻き込まれ、分断されていきます。被爆12年後にようやく「原爆医療法(原子爆弾被爆者の医療等に関する法律1957)」─①被爆者健康手帳(健診無料)②病気治療の国庫負担─が施行されましたが、対象者も特定疾病(補償の対象とする健康被害)ともわずかで、実情に合わず次々に改正しなければなりませんでした。また、法案化過程において対象を原爆被爆者に限定し、それ以外の放射線被曝による被害者ははじめから除外されてしまいました。

3 最高裁判決と基本懇意見書
 1968年には「原爆特別措置法(原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)」で各種手当が拡充される一方、広島の場合、爆心地を中心に同心円で被爆者を選別する発想が持ち込まれ、被爆者同士の分断を生みました。
 被団協は法案化に向けて要求項目を具体化して発表を続け、参院では2度可決するものの、国家補償を認めたくない与党の抵抗により否決されました。
 78年、韓国人被爆者による被爆者健康手帳交付要求訴訟の最高裁判決は「(原爆被害が)遡れば戦争という国の行為によってもたらされた」ことに言及しました。これに対抗して厚生省(当時)の諮問機関である基本懇(原爆被爆者対策基本問題懇談会)は、『(戦争という非常事態においては)何らかの犠牲を余儀なくされても(中略)「一般の犠牲」として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない』という意見書(1980年)を出しました。
 原発事故後の現在から見た時、国策の誤りによって被害が生じても、国家補償を拒否し、被害受忍を強要していく政府の姿勢がここから現在に至るまで継承されていることがはっきりとわかります。

4 現在の援護法
 1994年施行の「被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)」は、被団協をはじめとする多くの被爆者が求めた「国としての償い」としての「援護法」とは程遠いものです。
 2000年代に入って被爆者認定訴訟で原告側勝訴が続いた結果、第一次安倍内閣時の認定基準見直しにより認定範囲が拡大されてもなお、原爆症認定は全被爆者の1%に満たないままでした。さらに麻生首相時代、被団協との間に訴訟終結に関わる確認書が交わされたものの、認定のための裁判は現在に至るまで続いています(2月25日の最高裁判決は被爆者認定に「特別な事情が必要」と大きく後退した)。

5 フクシマとの合流をめざして
 援護法要求の闘いの原点は、峠三吉の「人間を返せ!」にあるように「まどえ!(広島弁で償え、元に戻せ)」でした。被爆者は今も内部被曝によって体内を焼かれ続けているのです。意に反して与えられた損害に対して「元に戻せ」というのは当然のことです。福島においても当事者が「原状回復」を求める原理原則を持つことが重要と思います。
 あくまで責任を追及し、国家補償を求める、という意味では、被爆者の闘いは未だ道半ばです。しかし、だからこそ私たちは核実験被曝者や原発事故被災者とともに責任を追及し、補償を求める運動をつくっていく必要があるのだと考えています。原基法、原賠法は理不尽この上なく、事故後の立法も文面だけ立派で被災者支援の実効性には乏しく、訴え続けなくては受忍を強要されてしまいます。私たちは「受忍論」を黙って受け入れることはできません。なぜなら被害は「すべての国民にひとしく」受忍されるはずはなく、必ず健康や情報や経済的な弱者に多く負わされ、ますます社会的不平等を助長するからです。
 最後に、今後も内部被曝、健康問題を追及し、核武装への道である原発再稼働と福島復興キャンペーンを改憲と一体のものと捉え、避難・保養・医療の支援を軸に、皆さんとともに、広く呼びかけを行っていきましょう。


          ◆年 表

1945.9~11戦災救助法適用
1949.8.6 平和記念都市建設法ー被爆者の思いとの乖離
     (GHQの統治下、情報統制と被害隠蔽)
1952.4.28 サンフランシスコ講和条約 賠償請求権を破棄
       占領終了
   4.30 戦傷病者戦没者遺族等援護法 軍人・軍属のみ対象
1953.7 広島・長崎両市長両市議会議長連名の国会への請願
   11   原爆症調査研究協議会に100万円の予算
    (ABCCには年1000万円規模の予算)
1954.3.1 五福竜丸事件(1955米から日に見舞金
     7億2000万円、乗組員に6900万円)
   3.2 衆議院に2億6千万円の原子力予算案提出
1955.8.6 原水禁世界大会
1956.5  広島で「原子力平和利用博覧会」
1956.8.10 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)結成
1957.4「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)」
    ①被爆者健康手帳(健診無料)
    ②放射線に起因する病気治療の国庫負担
1966.10 被団協「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求
     (つるパンフ)」発表
1968.5 「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律
    (原爆特別措置法)」ー各種手当を拡充・「特別被爆者」
    爆心地を中心とする同心円で被爆者を選別
1973.4被団協「原爆被爆者援護法案のための要求骨子」発表
   ー法案は参院で2度可決も国家補償を認めたくない
    与党の抵抗により衆院で否決
1978.3 韓国人被爆者の被爆者健康手帳交付を求めた
    最高裁判決ー「(原爆による被害が)遡れば
    戦争という国の行為によってもたらされた」
    「(原爆医療法は)実質的に国家補償的配慮が
    制度の根底にある。」
1980.12 基本懇(原爆被爆者対策基本問題懇談会)意見書
    *国策として戦争を遂行し、被害が生じても国家補
     償を拒否し、被害受忍を強要
1984.11 被団協「原爆被害者の基本要求」発表
     ①国家補償
     ②遺族に年金を
     ③健康管理と治療・療養を国の負担で 
     ④被爆者全員に年金を
     *『原爆被害者』には死者、遺族も含まれる。
1994.12 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」
     *「国としての償い」ではなく、被爆者が求めた
      「援護法」とは程遠い 
2000年代 被爆者認定訴訟で原告側連勝
2007   第一次安倍政権 認定基準見直し発言
2008   新審査方針 認定範囲拡大(それでも原爆症認定
     は被爆者の1%未満)
2009   麻生首相と被団協 訴訟終結に関する基本方針
     に係る確認書*手続きを見直したのみで、
     未だに認定裁判が継続