11月23日に行われた福島現地調査の報告をNAZENみやぎの小原さんと新潟の片桐さんから頂きました。片桐さんの報告はNAZEN通信12月号に掲載し、小原さんからの報告は来年1月号に掲載予定ですが、原文をここで紹介します。写真は小原さんから頂いたものです。

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11/23 津島スタディツアーに参加して
              NAZENみやぎ  小原 真喜子

 スタディツアーは「ふるさとを返せ津島訴訟原告団」の石井ひろみさん、武藤晴男さん、志田昭司さん、窪田たい子さんに案内していただきました。参加者は福島、宮城、新潟から17人にもなりました。

 福島市から石井ひろみさんの車に乗せてもらい津島に行く途中、避難地区だった川俣町山木屋地区を通りました。津島地区を通過した原発プルームはこの山間を通って山木屋地区にも来た。途中の道路は至る所拡張工事中。津島地区の除染の土を運ぶダンプのためとのこと。「自分たちが住んでいる時はいくら要望しても工事してくれなかった」と石井さんが話してくれました。

 津島スクリーニング場では、不織布の防護服、靴カバー、マスク、手袋3組、個人線量計など10点セットをもらいます。自宅に行く度にこれを身につけなければ入れない、色も匂いもないけれどここからは帰還困難地域と思い知らされました。

 新しい津島保育所の庭には雑草が茂り、高台にある大きな学校にも、木々の間から見える大きな農家にも人の気配はありません。ただ所々空地に工事車両と業者の人が目立ちました。除染の旗もありましたが、しかし除染の予定は津島全体の1.6%にすぎないのです。石井さんは、きれいになる前の津島を見てほしいと話していました。

 最初に案内していただいた津島稲荷神社は平安時代に建てられた歴史ある神社です。お祭りには神輿をかついで賑やかだったとのこと。
 家の中まで案内していただいた石井さんのお宅は明治から18代続く旧家です。
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大きな神棚がある24畳の広間でこの地域で伝えられてきた田植え踊りの練習をしたとのこと。解体費用が出されるのは23年までと決められていて、その後の解体は自費、解体された廃材は「放射線廃棄物」となり、処理には莫大な費用がかかると言われているとのこと。
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 昼食交流会をした原告団長今野さんのお宅は4代にもわたって引き継がれてきた旅館でした。今野さんは、自分が建てた自宅は自分で解体することを決めたが、継いで来た旅館は決断がつかないとのこと。住民が、何故こんな苦渋の決断を迫られるのか、こんな事態を引き起こした側が期限を決めるなんて間違っている! あまりにも住民の気持ちを無視している!

 津島診療所は小さな建物ですが3.11の震災直後には避難してきた人たちが長蛇の列を作りました。事故後ここで子ども達は外を走り回り、住民達は自らが被曝していることも知らず、避難して来た人たちのお世話をがんばったのです。今敷地には猪の足跡と庭を掘り返した穴があるばかりです。

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 最後に案内していただいた武藤さんの家の周りは前回調査の時は道路から家の前まで笹竹が生い茂っていたそうですが、今回は除染作業が終わりきれいになっていました。家のまわりは、ここが畑だったと言われても信じられないくらい笹竹がびっしり生えていました。さらに家の中は動物に荒らされものが散乱し、見る影もありません。しかしこたつ、ガラスケースに入った人形、お子さんの賞状、ここに確かに家族の団らんがあったのです。土足でごめんなさい。いたたまれない気持ちになりました。しかし除染したといっても、外の雨どいの下は4μ㏜。数字を見て怖さがわかるのです。

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 山の中の養鶏場も案内してもらいました。雪が降っても鶏が生きているときは、体温で雪が溶けていたけれど、鶏が死んでしまい鶏舎は雪の重さで潰れてしまいました。養鶏場の持ち主高橋和重さんのお父さんは、シベリアで抑留されて引き上げてきてから苦労して養鶏をはじめ、息子の和重さんが引き継ぎました。お父さんは避難所に行っても、仮設住宅は狭くてシベリアを思い出すからいやだと何度もここに戻ってきたとのことです。津島地区は戦争から引き上げて来 た、開拓農民の人たちも住んでいた地域なのです。「父は国に二度捨てられた」と話していたそうです。
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 石井さんは「原発事故の責任はもちろん東電にはあるけれど、私は国の責任を問いたいのです」と話されています。原発は国家政策でした。この自然豊かな環境と、長い歴史を紡いできたコミュニティを無残に破壊した、その事故の責任は国にあると私も思いました。
「ふるさとを返せ」、津島地区に行って改めてその言葉通りだと実感しました。 

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津島現地調査に参加して
             新潟・片桐元

 11月23日の現地調査は4月に続いて2回目。福島、宮城、新潟の各地から17人が参加、福島市で集合したのち、津島地域活性化センターで原告団と合流、車5台に分乗して現地に立ち入った。

 新潟市を午前6時に出発し、帰りは深夜というハードスケジュールだったが、得るものは大きかった。放射能が今も存在する現地立ち入り調査という難しい取り組みに、これまでの柏崎原発反対闘争とはまた違った側面を思い知らされた。

 故郷の喪失・放射能被害、生活の基礎である原告らの自宅や畑の崩壊という現実を目の当たりにした。被害の深さと動物たちに荒らされた家屋の現場を見て、表現に戸惑う深刻さを実感させられた。立ち入りには「検問所」で氏名などを登録、タイベック(防護服)を着用しなければならない。このとき各人に小さな放射能線量計を渡されたが、私の場合、線量計はおおむね1・0(マイクロシーベルト)だった。履物も2重に防護した。これは家屋の中を見学した後に、2重の内の外側の一枚を廃棄するためだ。戸惑いながら、同僚のしぐさを見習い、着衣する。域内に出入りするときは、立ち番の人がそのつど携帯電話で連絡する仕組みになっていた。

 見学場所は津島稲荷神社、津島診療所、被災住宅2ヶ所、養鶏場など計8ヶ所。見学した診療所はごく普通の診療所だったが、原告団の説明によれば、ここに300人からの住民が詰めかけたそうだ。事故当時、診療所の医師がお年寄りに「常用の薬」の名前を聞くが、「お年寄りに自分の薬の名前なんか、説明できませんよ」と説明していた。

 昼食場所はかつての旅館。参加者各自が持参した昼食をとったが、漬物や惣菜が廻されて、わいわいがやがやと賑やかに歓談した。
 参加者の中に写真家の飛田晋秀さんがいて、現地見学の途中、何度か土壌採取を行なっていました。「土壌採取!」と問うと、「いやあ、みんな、なかなか信用しないのよ。それで土壌を採取しているのですよ」という元気な声が返ってきました。ようやく納得できました。

 現地調査の後半に被災住宅を見学した後、車で山越えしました。ここで中型のイノシシがオリの中で懸命に逃げようと騒いでいるのを目撃。イノシシの跋扈(ばっこ)に沈んだ気持ちに襲われました。
 現地調査の中では津島原発訴訟の概要の説明がなかったが、原告団が配布した資料によると、現地検証(現地進行協議)も行っているとのこと。控訴審での現地検証は困難であろうが、原発事故被災の現実を裁判所に知ってもらうには現地検証は欠かせない。
 未曾有の福島原発事故に関する報告書や新聞記者らの現地報告、報道写真家らの生々しい現地レポート、調査団の報告書など膨大に出回っている。しかし百聞は一見にしかず。被災現地に身を置いて被曝の危険と隣り合わせになる中でこそ、ようやく実感できることがあった。今回の現地調査は私にとってそうであった。