10月10日、NAZENの全国の仲間で、「黒い雨」訴訟・広島高裁判決に関するオンライン学習会を行いました。判決文自体の学習では、事務局から伊谷和男が「『黒い雨』訴訟・確定判決をどう生かすか」を提起しました。被爆者運動と「黒い雨」訴訟の歴史については、大江厚子さん(広島・安芸太田町議会議員)が「被爆者は、原爆被爆に対する国家補償を求めて闘った」という報告をしました。さらに、9・5被曝・医療シンポジウムでの渡辺瑞也医師のビデオレター、「福島原発被曝者として広島『黒い雨』訴訟から学ぶべきこと」をあらためて視聴しなおしました。

NAZEN通信に掲載した二つの報告を掲載します。

◆「黒い雨」訴訟・確定判決をどう生かすか

       NAZEN事務局 伊谷和男

 私の提起は、①判決内容、②内部被曝を隠蔽して核・原発推進(歴史的にとらえ返す)、③反原発・反核の全運動論の再構築を、というものですが、ここでは判決内容について3点に絞って報告します。
 
・実質的に国家補償的配慮の制度
 まず原爆症とはなにか。被爆者援護法の前身に当たる原爆医療法の制定時、法律案の国会審議に備え厚労省が作成した文書(1957年2月)には次のようにあります。
  •  「原爆症とは原子爆弾に起因すると考えられる疾病傷害について仮りによばれている名でありまして, 決定的な単独の疾病としてはっきり致しておりません。従いましてその病名は,白血病とか,再生不良性貧血とか,その他一般に使用されている病名であらわれています。しかし現在の医学においては未だ証明されないものが被爆者に加わっていることも想像されるところでありまして,……要するに原子爆弾の放射能に起因すると推定される疾病等であって特異な症状を呈する一群の疾病群を総称して原爆症と呼ばれていると考えます」(49㌻)
 原爆症は、“一般に使用される病名で表れるが、いまだ証明されない被害も想像され、原爆の放射能に起因すると推定される一群の症候群を総称するもの”と言えましょう。この間、渡辺瑞也医師が、福島第一原発事故に伴う健康被害を「放射線被曝症候群」と提起されていますが、これに通底する規定が当初から行われていたことが分かります。
 これは1957年の厚労省文書ですが、判決文は被爆者援護法の制定過程のさまざまな文書を掘り起こし、それに依拠して判決を出しています。原爆医療法に関する1978年の最高裁判決では、次のように言い切ってます。
  •  「原子爆弾の被爆による健康上の障害がかつて例をみない特異かつ深刻なものであることと並んで,かかる障害が遡れば戦争という国の行為によってもたらされたものであり,しかも,被爆者の多くが今なお生活上一般の戦争被害者よりも不安定な状態に置かれているという事実を見逃すことはできない。原爆医療法は,このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり,その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは,これを否定することができない」
 最高裁でここまで言われていたにもかかわらず、それを履行してこなかった歴代政権にあらためて怒りが沸きます。福島第一原発事故に伴う健康被害も政府・東電の責任であり、国家補償的な救済制度を作って当然です。
 
・1個で内部被曝するだけで
 「黒い雨による内部被曝」については、「黒い雨の降る空間には放射性微粒子が充満するため,雨に打たれても打たれなくとも呼吸による内部被曝がもたらされる」と明記されています。また,汚染した農作物や水による内部被曝も挙げられています。呼吸と飲食という人体活動すべてが被曝となるという指摘です。この後に「内部被曝の危険性」が詳しく書かれています。
  •  「内部被曝は,外部被曝に比べ,次のような特徴を持ち,より危険性が高いということができ,放射性微粒子1個で内部被曝するだけで,可能性としては,身体に原爆の放射能の影響を受ける事情が出現することになる。
  • a 内部被曝では,外部被曝ではほとんど起こらないアルファ線・ベータ線による被曝が生じる。
  • b ガンマ線と比較すると,局所的な被曝であるために分子切断の範囲が狭く,放射線到達範囲内の被曝線量が非常に大きくなる。
  • 身体の至る所に巡回し,親和性のある組織に入り込み,停留したり沈着したりする。
  • c 放射性微粒子が極めて小さい場合,呼吸で気管支や肺に達し,飲食を通じて腸から吸収されたり,血液やリンパ液に取り込まれたりして
  • d 身体中のある場所に定在すると,放射性微粒子の周囲にホットスポットと呼ばれる集中被曝の場所を作る。バイスタンダー効果(放射線を照射された細胞の隣の細胞も損傷すること)等を考慮すると,DNAに変性を繰り返させ,癌に成長させる危険を与える。
  • e 放射性物質が体外に排出されるか減衰しきるまで,継続的に被曝を与え続ける。
  • f 外部被曝の場合には低線量と評価される状態であっても,内部被曝の場合には桁違いの大きな被曝を与える」(139~140㌻)
 内部被曝はこれほど危険なのです。しかし、この危険性は隠され続け、それによって核と原発は成り立ってきたと言って過言ではありません。内部被曝の真実が明らかになると、核と原発の非人道性も白日のもとにさらされます。核廃絶・全原発廃炉のために、この判決を生かしましょう。

・疑わしきは申請者の利益に
 被爆者援護法第1条は被爆者を規定しており、直接被爆者、入市被爆者、胎内被爆者のほかに、3号で「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」としています。広島地裁判決では、被爆者認定には「黒い雨」の被曝、疾病の発症が必要としていました。高裁判決は「たとえ黒い雨に打たれてなくても」としたうえ、疾病の発症を要件から外しました。
広島高裁による「判決要旨」から引用します。
  •  「被爆者援護法1条3号の『身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者』の意義は,『原爆の放射能により健康被害が生ずる可能性がある事情の下に置かれていた者』と解するのが相当であり,ここでいう『可能性がある』という趣旨をより明確にして換言すれば,『原爆の放射能により健康被害が生ずることを否定することができない事情の下に置かれていた者』と解され,これに該当すると認められるためには,その者が特定の放射線の曝露態様の下にあったこと,そして当該曝露態様が『原爆の放射能により健康被害が生ずることを否定することができないものであったこと』を立証することで足りると解される」
 判決文では次のようにも書かれています。
  •  「被爆者について,原爆の放射能の身体への影響があると考えられれば足りるものであり,上記影響が実際にあったことやその程度までを問うものでない」「被爆者の認定に当たっては,科学的な証明を求めることが相当でない」「被爆者の認定に当たっては,弾力性のある処理をすることで,申請者の立証責任を軽減する方針,いわば『疑わしきは申請者の利益に』という方針で臨むべきである」
 これは、原水爆による被爆についてだけではなく、原発による被曝についても言えます。福島第一原発事故による被曝と健康被害を巡って、これを駆使して勝たなければなりません。


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被爆者は、原爆被爆に対する国家補償を求めて闘いつづけてきた

         広島 安芸太田町議会議員 大江厚子

 本年7月、「黒い雨」訴訟は県・市の上告断念で高裁判決が確定し完全勝利、8月2日から被爆者健康手帳交付が開始。原告団は「黒い雨」に遭った人の被爆者健康手帳・健康管理手当申請支援を始め、広島市湯来町や安芸太田町で続々と申請がなされています。

 一番若い被爆者(胎内被爆)でさえ、76歳。記憶を呼び起こし、証人を探し、「自分も被爆者だ。国は認めろ」と申請に取り組んでおられます。国は早急に地域拡大の見直し、基準の確定、そして申請の審査を行うべきです。

 菅首相(当時)は上告を断念しながら「内部被ばくの健康影響を、科学的な線量推計によらず、広く認めるべきだとした点については、政府としては容認できない」と、あくまで内部被ばくを否定しました。福島原発事故はじめ、あらゆる被ばく者への医療・生活の補償への波及や、原発政策・核政策の見直しへと闘いが拡大することへの恐れからです。福島と被爆者が手を取り、この政府の態度を打ち破るためにも、闘いの歴史を学んでいきましょう。

◆被爆者たちは立ち上がって援護法を勝ち取った
 52年まで日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)は、プレスコード(報道統制)によって、特に米国の最高機密である原子爆弾に関する報道を厳しく規制しました。しかしその中でも被爆した文学者たち、被爆者市民が立ち上がります。プレスコード解除後、被爆者自身の援護要求運動と被爆者を支援する活動、原爆症の研究、被爆者医療への取り組み、被爆者の健康管理、市・市議会や国会への請願等、運動が進められます。

 55年8月6日に第1回原水爆禁止世界大会(広島)を開催、被爆者救援(連帯)運動を「原水爆禁止運動の基礎」と位置づけ、9月には原水爆禁止日本協議会が結成されます。

 勇気づけられた被爆者が地元で被爆者を訪ね歩き、「原爆被害者の会」の結成がひろがります。

 56年3月、広島県原爆被害者大会で「国家補償の精神に立つ援護法」を要求し、5月には広島県原爆被害者協議会が結成、被爆者自ら、被爆者援護・原水爆禁止の運動を求めていくことが決意されます。8月10日に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成、「原爆被害者援護法要綱」を策定、広島・長崎の行政・議会や国への陳情へ、広島県内の被爆者を奮い立たせ、闘いは広がっていきました。

 そして57年「原子爆弾被爆者の医療に関する法律(原爆医療法)」(健康診断、医療給付)、68年 「原子爆弾被爆者の特別措置に関する法律(原爆特別措置法)」(各種手当支給)が制定され、被爆者・被団協は、原爆2法を数十回にわたって改正させ、被爆者援護は拡大・拡充していきました。

 73年には被団協は「国家補償の精神に立った援護法」を要求。職域被爆者組織(広島県被爆教職員の会・広島県高校被爆教職員の会・国労被爆者対策協議会・動労被爆者対策協議会・全電通被爆者連絡協議会)と連帯した大きな動きは、国会への被爆者等援護法案提出にもなります。

 79年、国は厚生大臣の私的諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」を設置、翌年「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」(意見) で国家補償を拒否し、原爆被害を含む戦争被害の「受忍」論を打ち出します。被団協は「戦争被害は“受忍”できない」「(受忍論は)国の戦争責任を問おうとしない」と真っ向から批判しています。

 援護法制定の国会議員の賛同署名は全議員の7割、援護法制定促進決議は全自治体の3分の2を超える2470自治体、国会請願署名は1000万を突破する中、94年12月「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が成立しました。しかし被団協は「被爆者援護法」の魂である『国家補償』を拒否する内容に強く抗議しました。この援護法も被爆者の運動の中で何度も改正させていきます。

◆『黒い雨』訴訟の経過 補償の線引きを問う
 立ち戻って「黒い雨」訴訟の経緯です。宇田道隆博士ら広島気象台職員の『広島原子爆弾被害調査報告』(47年)、残留放射能濃厚地区の『特別被爆地域』認定(65年)を経て、広島県・市は「黒い雨」地域住民から聴き取りや資料集めを73年から開始。国は76年9月、宇田降雨図の大雨地域を『健康診断特例地域』(原爆医療法適応)に指定します(図の①)。

黒い雨雨域
  (「黒い雨」降雨地域図、一番内側から、①宇田大雨地域、②宇田小雨地域、③原爆体験者等意識調査で判明した降雨地域、④増田降雨地域。PDFはこちら

 78月9月、佐伯郡湯来町(当時)宇佐地区で「黒い雨」問題報告集会が開催され、「降雨図は正確ではない」「なぜ大雨地域だけなのか」と声があがりました。これが43年にわたる闘いの始まりです。

 近隣自治体では国への対象地域拡大の請願・陳情が行われ、11月「黒い雨・自宅介護」原爆被害者の会連絡協議会が結成。79年には2万筆の署名をもって厚生省へ陳情を行ないました。

 87年と89年、増田善信・元気象研究所室長が気象学会で「黒い雨降雨域は宇田降雨図の約4倍、卵型ではなく不規則な形」と発表しました(図の④)。広島県・市は黒い雨に関する専門家会議を設置、「黒い雨地域における残留放射能の残存と放射線による人体の影響を認めることはできなかった」と結論、国の方針に従う。これに対し各地で「黒い雨の会」が結成されていきます。

 広島県・市は原爆被害実態調査を行い(図の③)、広島県・3市5町の首長・議会議長が全降雨域を大雨域と同種の対象地域にするよう政府に要望書を提出(10年)、しかし厚生労働省の有識者検討会は「降雨域を確定するのは困難」と結論。これに対して15年3月、広島市(36名)や安芸太田町(6名)の住民が市・県に被爆者健康手帳、第一種健康診断受診証の交付を集団申請、市・県はこれを却下。これを受けて原爆「黒い雨」訴訟を支援する会を発足させ、却下処分の取り消しを求め広島地裁に64人(後に原告は88名)が提訴、「黒い雨」訴訟が始まったのです。

 広島地裁の原告勝訴判決(20年7月)後も、国は福島の被ばくによる健康被害について「放射線によるリスクは発がん要因の中で非常に小さい」と述べた佐々木康人を座長に「第一種健康診断特例区域等の検証に関する検討会」を開催。こうした妨害をはねのけて広島高裁判決(21年7月)は勝ち取られました。そこで雨域による線引きを許さず、内部被曝の可能性を否定できなければ救済すべきと国家補償を求める判決を勝ち取ったのはご存知の通りです。

 訴訟過程で19名の原告が亡くなりました。
「黒い雨」訴訟の完全勝利は文字通り命懸けの闘いで勝ち取られたものです。また、被爆者はあくまで補償の線引きをして逃げ回る国の責任を問い国家補償を求めて闘っています。この判決をすべての被爆者、福島原発事故被害者、原発労働者のものにするため、声をあげたいと思います。